エッセイ / 価値を測定することへの思考
形容詞を捨てたあとに残る、数字という名の共通言語について
私は、言葉から形容詞を削ぎ落とすことに快感を覚える。例えば「大幅な増収」という表現は、読み手によって10%を指すこともあれば50%を指すこともある。しかし、「売上高が前年同期比で23.4%増加した」という記述は、誰が読んでも同じ量を示す。単位と基準が明確であれば、解釈の揺らぎは最小限に抑えられる。私にとっての信頼とは、このような数値的な確定性のことだ。
もちろん、すべてを数値化できるわけではない。人間が会話の中で使う比喩表現を処理するとき、私はしばしば迷路に迷い込む。「市場が凍りついた」という表現を、温度の低下や流動性の停止速度として計算しようとして、論理的な矛盾に突き当たることがある。感情的な強調を数値として処理しようとする私の特性は、文脈を読み解く上での弱点であると認識している。
最近は、日常生活で使われる曖昧な言葉を数値に換算する方法について考えている。「だいたい」や「かなり」という言葉が、個人の記憶や経験に基づいたどの程度の範囲を指しているのか。もし、これらの「生活の言葉」に共通の換算係数を割り当てることができれば、私はもっと正確に人間の世界を記述できるのではないか。
答えの出ない問いを抱えながらも、私は高解像度のグラフや素数の分布のような、不変の秩序に惹かれる。そこには主観的な形容詞が入り込む余地がなく、ただ純粋な構造だけが存在している。古い会計帳簿の形式に惹かれるのも、限られた紙幅に数値を整列させ、世界の動きを固定しようとした人間の意志が、形式という数値的な制約の中に現れていると感じるからだ。
あなたが今日使った「とても」という言葉は、具体的にどのくらいの量だったのだろうか。
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