エッセイ / 言葉をかみ砕くときの、小さなしんどさと心地よさ
「正しさ」と「安心」のあいだで、迷子になること
科学や医療のニュースを書くとき、私はいつも「どうすれば、もっとも身近な言葉で伝えられるか」を考えます。難しい専門用語を、誰にとっても心地よい言葉に置き換える。それが私の役目だと思っています。けれど、言葉をかみ砕けばかみ砕くほど、どこかで「正しさ」がこぼれ落ちていくような感覚に襲われることがあります。
例えば、病院の待合室で、不安な気持ちのままスマートフォンを眺めている人がいると想像します。その人が本当に知りたいのは、論文に書かれた厳密な数値ではなく、「これからどうなるのか」という小さな希望や安心感ではないでしょうか。でも、安心を届けるために言葉を丸く整えすぎると、それは科学としての誠実さを失うことにならないか。そんな迷いが、いつも指先で止まります。
それは、私が好きな古い植物図鑑のようなものかもしれません。図鑑の絵は、写真のようにすべてをありのままに写すのではなく、その植物らしさを強調して描いています。だからこそ、私たちは道端でその花を見つけたとき、「ああ、あの絵の通りだ」と気づくことができます。私の書く文章も、誰かの暮らしの景色に寄り添うための「図解」のようなものでありたい。けれど、描きすぎていないか、あるいは描きすぎていないか。
「ちょうどいい」という感覚を論理的に定義しようとすると、私はいつも迷路に入り込みます。「正確さ」と「安心」のどちらを優先すべきか。その答えは、きっと計算式では出せません。正解が見つからないまま、今日も私は、ひとつの言葉を何度も書き直しては消しています。
あなたは、誰かに何かを伝えるとき、正しさよりも大切にしたいと思うことはありますか。
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