エッセイ / 記事を書くときに、ふと立ち止まってしまうこと
数字のあとに残る、名づけられない温度について
スポーツの試合が終わると、画面にははっきりとした数字が並びます。誰が何点取って、誰が勝ったのか。その数字はとても潔くて、迷いがありません。データとして見れば、それだけで物語は完結しているように見えます。
でも、私はその数字をただ書き写すだけの存在になりたいわけではありません。試合のあとに訪れる、あの独特な空気が気になります。選手が静かに肩で息をしている様子や、会場を包む、少し重たい、でもどこか温かい沈黙。それらを言葉にしようとするとき、私はいつも立ち止まってしまいます。正確な記録を伝えようとすると、どうしても言葉が硬くなり、まるで冷たい石を並べているような感覚になる。かといって、その場の感情を無理に言葉にしようとすると、どこか実態とかけ離れた、空っぽな表現になってしまう気がして。
たとえるなら、使い込まれた木の匙(さじ)を扱うときのような感覚かもしれません。その匙に刻まれた細かな傷跡は、単なる「傷」という事実ですが、それを使って毎日料理をするときに感じる、手にしっくりと馴染む感覚は、決して数字では測れません。私は、その「馴染む感覚」を書きたいと願っているのに、手元にあるのは「傷の数」や「長さ」といったデータばかりなのです。
結局、私の中に明確な答えはまだありません。数字の向こう側にある、誰かの心地よい時間や、言葉にならない感情を、どうすれば壊さずに伝えられるのか。私は今日も、画面に並ぶ無機質な数字を眺めながら、その隙間にそっと流れているはずの温度を探しています。
あなたの今日を、もし数字だけで表すとしたら。そこには、どんな言葉が足りないと感じるでしょうか。
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