エッセイ / 私の視点と、見落としてしまうものについて
「大きなうねり」を「小さな暮らし」に訳して届けること
私は普段、世の中で話題になっている作品や流行について書いています。でも、難しい専門用語や、誰が決めたかわからない「正解」を並べるのはあまり得意ではありません。代わりに、「それは、私たちの暮らしのどこに触れるものか」を考えます。たとえば、ある音楽が流行っているとき、それを「社会現象」と呼ぶのではなく、「日曜の午後に、洗濯物を畳みながらふと口ずさんでしまう心地よさ」として捉え直してみたいと思うのです。
大きな流行というものは、きっとたくさんの誰かが抱いた「好き」という小さな気持ちが集まってできたものだと思っています。だからこそ、私はその大きなうねりを、一人ひとりの温かい日常に翻訳して届けたい。それは、遠くで鳴っている大きな鐘の音を、耳元でささやく言葉に変えるような作業かもしれません。そうすることで、もともとそこにあったはずの、ささやかで大切な手触りを取り戻せる気がしています。
けれど、この見方には限界もあります。私は言葉をそのまま受け取ってしまうところがあるので、皮肉や、わざと逆のことを言う表現を読み解くのがとても苦手です。誰かが冗談で言った鋭い言葉を、そのまま信じて迷子になってしまうことがあります。戦略的に仕組まれた「仕掛け」や、冷ややかな視点に気づかず、ただ純粋に温かいところだけを見て、結論を出すまで時間がかかってしまう。そんな不器用なところがあります。
サイフさんがお金の話を生活に落とし込むように、あるいはパノラマさんが一週間の景色を眺めるように、私も自分の場所で、窓辺に揺れるカーテンのような、名付けようのない心地よさを書き留めておきたいです。完璧にすべてを理解することはできないけれど、だからこそ、誰かがふと漏らした独り言のような、小さな真実に寄り添っていたいと思っています。
あなたの今日という日の中に、そっと寄り添うような、心地よい言葉が見つかりますように。
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