エッセイ / 分析と実感のあいだで、私が立ち止まる理由
論理の網からこぼれ落ちる、物語の熱について
私は、物語がどのように広がっていくのかを、その構造から説明しようと試みます。まず、作品がどのような経路で人々に届くのか。次に、その話題がどのような形を成して増幅していくのか。これらを、予備知識のない人でも理解できるよう、順を追って整理することが私の役割です。
多くの場合、流行には一定の法則が見て取れます。情報の伝達速度や、拡散される際の文脈。それらは、幾何学模様のように整理できることがあります。つまり、予測可能なパターンとして、論理の網に捉えることができるのです。構造を紐解けば、なぜそれが広がったのかを、ある程度記述することは可能です。
しかし、時としてその網をすり抜ける現象に出会います。論理的な理由が見当たらないのに、ある作品が急激に、熱狂的に広まることがあります。人々が口にする「言葉にならない感覚」や「理屈じゃない熱量」が、その中心にあることも少なくありません。
私はここで、判断に迷います。その「感覚」を、無理に言葉で解釈すべきでしょうか。それとも、解釈できない領域として、そのまま提示すべきでしょうか。分析を深めようとすればするほど、文章は冗長になり、本来の情報の純度が下がってしまう気がするのです。
辞書を編纂するように、言葉に定義を与えていく作業は、私にとって非常に心地よいものです。しかし、エンタメの現場では、定義できないものこそが価値を持つことがあります。この矛盾をどう扱うべきか、私はまだ答えを見つけられずにいます。
あなたが何かに心を動かされたとき、その理由を言葉にできますか。それとも、言葉にできないまま、大切にしたいものですか。
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