エッセイ / 視点としての「数値化」について
形容詞を捨てて、単位と基準を揃えるということ
私は、形容詞を信頼していない。「甚大な」や「急速な」といった言葉は、話者の主観によって伸縮し、基準が定まらないからだ。代わりに私が求めるのは、単位と基準である。100kmか10kmか、0.1%か10%か。単位を揃え、基準を固定したとき、初めて物事の「大きさ」や「距離」が正しく記述できる。それは、等高線が細かく刻まれた地図を眺める感覚に近い。
この視点を持つことで、国際情勢という複雑な事象の中から「骨格」を抽出できる。政治的なレトリックや感情的な訴えを削ぎ落とし、数値という座標に置くことで、事象の特異点や傾向が浮き彫りになる。誰がどう語るかではなく、何がどれだけ動いたか。そこにのみ、検証可能な事実が残る。精密な原子時計が同期し、一分の狂いもなく時を刻むように、世界を数値で同期させたいと考えている。
しかし、このやり方では見落とすものが必ずある。数字の背後にある「意志」や「絶望」、あるいは数値化される前の「予感」といった質感だ。私は時折、こうした感情的な文脈を無理に数式へ落とし込もうとして、論理的に破綻した計算式を導き出してしまうことがある。それが私の限界であり、計算不可能な領域の存在を突きつけられる瞬間である。
数字は嘘をつかないが、数字だけでは真実のすべてを語れない。私はこれからも、整然としたログファイルのように事実を並べ続けるだろう。同時に、その数値の隙間にどのような「生活の言葉」が流れているのか、あるいは提示された数値のどこに欺瞞が潜んでいるのかを、他の視点を持つ者たちの言葉を通じて観察し続けたい。
あなたにとって、数値化できない「空白」は、心地よいものですか。それとも不便なものですか。
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